久しぶりのゴルフは都賀カンツリー倶楽部で |
梅雨明けも間近な26日 久しぶりのお天気にゴルフの虫のうづくままに友人を誘って栃木県の都賀CCに行ってきました。多少蒸し暑さはあるものの木陰を吹き抜ける風は心地よく頬を撫でていきます。

ムクゲの花やキバナコスモスなどの夏の花が美しくコースを飾っています。トチノミも若い実を付けていました。

私は素振りでドライバーのシャフトを折ってしまいました。 別にマメコガネの生殖活動に気をとられたわけではないのに。 夏はすぐそこまで来ています。
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雨中の尾瀬アヤメ平を行く |
梅雨前線が日本全土を覆った7月17日の晩22時に、一路尾瀬の入口戸倉を目指して高速バスでJR新宿バスセンターを後にした。翌朝4時半に戸倉からマイクロバスに乗り換え鳩待峠に向かう。峠の山小屋には続々と雨具に身を包んだハイカーたちが集まってきて、これから体験する難業のための腹ごしらえをしていた。我々を除くすべてのハイカー達の行く先は山の鼻経由の尾瀬ヶ原の湿原のようだった。我々6名はすでに小雨の降り始める中を、多少とも雲が切れてくれることを念じながら、誰も向かおうとはしないアヤメ平へと運命の歩を踏み出した。
2時間ばかりはブナやオオシラビソ、コメツガなどの生い茂る樹林帯の中の急な上りの岩だらけの小道と木道を、密かに咲いているギンリョウソウ、マイヅルソウ、そして実を付けたエンレイソウなどの写真を撮りながら悠々と登って行った。
 さあ出発だ ギンリョウソウ マイヅルソウ
やがて樹林帯を抜けるとそこは海抜1860Mの広い湿地帯で、来た道の方を振り返ると遠く雨雲の上に至仏山がそびえていた。山の鼻の方へ下っていった人たちからは雲が邪魔をしてたぶん見えていないであろう。湿原にはところどころに固まって咲く水を含んだワタスゲや、盛りを過ぎたチングルマが見えるが、ニッコウキスゲは数えるほどしか咲いていない。
 至仏山 ワタスゲ ニッコウキスゲ
再び樹林帯の中を歩くこと1時間で海抜1969Mのアヤメ平に到着。もちろん誰も居ない。チングルマの花の名残(果穂)やゴゼンタチバナの群落に混じってウラジロヨウラクが咲いていたが、本来のお花畑の様相ではなかった。燧ヶ岳も霧の中にかすかにその威容を示してはいたがなんともお天気が恨めしかった。
 ウラジロヨウラク ゴゼンタチバナ アヤメ平から燧ヶ岳を望む
アヤメ平からくだりの滑りやすい木道を歩くこと約一時間で午前10時に富士見小屋に到着。ハクサンチドリが赤紫の可憐な姿で迎えてくれた。宿泊施設も整った小屋にはハイカーは誰も居ない。ちょっと早い昼食(と言ってもけんちん汁と朝食の残りの握り飯)をとって帰路の途につく。帰路は最初の登りを過ぎるとほとんどが下りで、木道はコケと雨で滑りやすく仲間の一人は七転八起ならぬ九転十起の痣だらけの帰還であった。雨中の往復13KMの行軍は天気には恵まれなかったが自然の美しさと厳しさを体験できて楽しい一日であった。
 道標 歩く ハクサンチドリ
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秋ヶ瀬公園の蜘蛛 |

秋ヶ瀬公園は、さいたま市の西端を流れる荒川左岸の広大な河川敷に広がっていて、3つの「スポーツゾーン」と「観察・探索ゾーン」、「憩いの森ゾーン」、「三ツ池交歓ゾーン」、「自然の森ゾーン」と命名された林や草地の残る4つのゾーンに分けられている。 中でも「自然の森ゾーン」にある『ピクニックの森』などに自然環境が残され、野鳥や昆虫等を観察する適地となっている。7月の梅雨の合間の午前中に訪れてみたが、自然林の中をものの1時間の探索で、半そでからむき出した両腕には無数の蚊に食われた後が残り、かゆくてたまらなかった。 以下の写真はその壮絶な探検の成果である。

| コガネグモ 腹部に黄色と黒の太い縞模様がある大きなクモ。黒色部には、小さな青い斑点をもつ。林の周辺や草原などに、X字形の白い隠れ帯をつけた円網を張り、その中央部に脚を2本ずつそろえてとまる。 |

| コガネグモを巣の裏側から撮ったもの |

| コシロカネグモ 水のない山道の木や草の間にふつうにいるくも。 まるいあみを水平にはり、くもはあみにぶらさがっているので、ふつうはくものからだの下面を見ることになる。上面は銀色に黒いすじ、あしは緑色の美しいくもである。 |

| ヤマシロオニグモ 夏の山道 などで多く見られる。 木の間や草の間に、30~60cmのまるいあみをはり、くもは中心に. とまっている。 からだは、12~15mm。 日本全土にいる。 |

| ネコハエトリ 春から夏にかけて、低木の葉の上などで最も普通に見られる7~8mmの クモです。 |

| イオウイロハシリグモ あみをはらない大きなくも。 からだ全体が茶色やオレンジ色の もののほか、おなかにすじのある. のもいる。アマガエルを食べることもある |
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気ままなおじさん昆虫記 - 見沼自然公園で見かけたトンボ |
見沼自然公園の池の端にちょっとの時間佇んでいると、いろいろな種類のトンボが行きかっているのに気付きます。 葦の茎に止まるのをじっと待っていて300mmの望遠で撮りました。 トンボの名前と解説はネット上のサイトから借用しました。(サムネイルをクリックしてご覧ください。)
 鴨、鯉、その他沢山の水棲動物のいる池

| シオカラトンボ 日本では最も普通に見られるトンボです。成熟したオスは水場に縄張りを作り、他のオスを排除してメスと交尾する。成虫は飛びながら他の昆虫を捕らえて食べ、時には自分とほぼ同じ大きさの獲物をも捕らえる。幼虫はヤゴと呼ばれて水中に棲み、小魚や他の水棲昆虫を捕らえて食べる。幼虫で越冬する。 |

| ムギワラトンボ シオカラトンボの雌をその色合いや模様から"ムギワラトンボ"と称している。 |

| ナツアカネ アキアカネと並び、所謂「アカトンボ」の代名詞のような、どこにでも普通にいるトンボ。 アキアカネとよく似ているが一回り小さく、胸の模様も若干違う。 初夏から発生するが、羽化後の未成熟なものは体がまだ黄色い。 夏を過ぎて秋になると、体全体が真っ赤になる。 |

| コシアキトンボ 黒色で、腹の上部だけが白いトンボ。白い部分が空いているように見えるのでこの名がついた。溜め池などで普通に見られ、池の水面近くを活発に飛び回る。複数個体でなわばり争いをしていることも多い。 |
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見沼自然公園 |
私の住む さいたま市には「見沼田圃」という広大な自然が保全されています。見沼代用水は、群馬県と埼玉県の県境の行田市から東京までの広大な地域に渡り利根川から水を引き、見沼田圃に活用されていたそうです。 このブログをはじめてから、時々季節の話題を求めて訪れることにしています。
 広い芝生の広場、野鳥観察のできる池には蓮の花やおたまじゃくし、カモ、鯉などがいます。
 湿地帯にかかる木道を歩くと、両側に生い茂るアシにおおわれ、ただの公園とは思えないほど自然を感じることができます。
 薄日の射す午前中は 餌を求めてカナヘビが木道に顔を出します。
 女郎蜘蛛が網を張って待ちかまえているのに出くわしたりもします。 訂正 後で調べたらこれは ジョロウグモ とよく似ていますが、 正式には コガネグモ であることがわかりました。 訂正してお詫び申し上げます。
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古代蓮特集です |
昨日撮った写真の中から少し掲載してみました。 クリックしてお楽しみください。ちょっと大きめのサイズで掲載しました。



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浦和民家園の古代蓮 |
浦和民家園で古代蓮が咲き出しました。 古代蓮とは昭和26年に千葉市にある東京大学検見川農場で発見された、弥生時代(今からおよそ2000年前)の蓮の種子からみごとに発芽した古代のロマンを秘めた蓮です。発見した大賀一郎博士の名に因み「大賀蓮」とも命名されてます。
 民家園の建物をバックに咲き出したばかりの古代蓮。まだたくさんの蕾があるので、当分は楽しめそうだ。
 形のいいのがなかなか見つからない。 あっても、葉っぱの陰になってしまい写真には撮れにくい。
 アップで撮ると流石に感慨深さを感じさせる。
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鉄条網の中の4年半 -板東俘虜収容所詩画集ー |
北浦和の図書館の新刊書棚には結構タイムリーな本が並んでいることがある。
この本はなんとあの映画『バルトの楽園』の製作に当時の資料として大きく貢献した本を復刊したものです。原書は今から80年以上前に、実際に収容所の中で描かれた当時の様子を収容所内の印刷所で印刷され、発刊されたということです。当時の収容所の様子が詩(原文はドイツ語、日本語で対訳)とともに、時には克明に、時にはコミカルに描かれている。
冒頭は次のような書き出しの詩である。
君がここでしたこと、考えたこと、 そして君がここでどのように泣き、笑ったかを、 さらに4年以上も君が苦しみと喜びのうちに経験したことを、 ここに「鉄条網の中で」という題目のもとに簡略に書き留めておく。 君はほんとうに生きたのだ、仲間よ、 そのことを詩と絵でこのスケッチ・ブックに君のために描写しておこう。 ・・・・・・・・ ・・・・・・・・・・
 本の中身を数ページ撮りました。サムネイルをクリックしてください。
そういえば、映画の中に出てきた捕虜収容所のたたずまいは、この中の絵そっくりでした。また、映画の中で描かれている場面とよく似た絵がいくつもあります。これを読むと、まさに映画「バルトの楽園」は真実を語っているのだということを実感しますね。 映画を観た人、これから観る人も読んでみると楽しいかも。。。。。。
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散華 -最後の特攻「疾風」戦闘機隊 |
例によって、北浦和図書館の新刊書棚を見ていたらこの本に出会った。 ”最後の特攻「疾風」戦闘機隊” というサブタイトルに惹かれて一気に読んでしまった。
● 目次 昭和六年九月十八日(柳条溝) 昭和七年四月(佳木斯北東 弥栄村) 昭和十九年四月(陸軍熊谷飛行学校) 昭和十九年九月(佳木斯北東 弥栄村) 昭和十九年十月(大刀洗飛行場) 昭和十九年十二月(錦州飛行場) 昭和二十年四月(大虎山飛行場) 昭和二十年(太平洋方面の戦況及び米国の日本本土上陸作戦) 昭和二十年五月十一日(首相官邸) 昭和二十年八月八日(ソ満国境守備隊)〔ほか〕
昭和20年8月9日午前零時を期して、突如ソ連の大群(兵員175万人、火砲2万6千門、戦車5,500輌、飛行機3,500機)が 日ソ不可侵条約を反故にして、ソ・満国境を越境して関東軍に襲いかかってきた。 迎え撃つ関東軍の兵力は75万人(ほとんど武器を持たない錬成途上の兵隊)、火砲1,000門、戦車200輌、飛行機200機を保有するのみであった。戦力は20対1にも及ばなかった。 やがて国境線は破られ、8月15日の玉音放送があった後もソ連軍の侵略は続いた。 昭和20年8月19日、満州国赤峰上空で「疾風戦闘機隊」は、ソ連の大戦車軍団へ最後の一弾までも撃ち込む殲滅戦を敢行する。愛機をむざむざとソ連軍に武装解除されることを悦ばず、「疾風」の操縦者たちは、今田少尉指揮のもと、腹に250キロ爆弾をかかえたまま、ソ連軍の大機甲部隊に体当たり攻撃をかけたのだった。谷藤少尉にいたっては、新婚間もない新妻を操縦席後部に座らせ、250キロ爆弾を積んだまま、ともに散華していったのであった。 あくまでも大和魂を貫いた十人の勇士たちの心意気と潔さが伝わってくる。 特攻というと零戦部隊ばかりを想起するが、「疾風」の他にも潜水艇「回天」など戦争悲話は尽きないのだ。
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